虚構の乳首

妊婦に対するフロイト理論は本当に害悪だなと、様々な経験をする中で思うに至ったが、自我と理性ある大人はともかく、主体が無い状態の赤子に対しては精神分析は無類の切れ味を誇っているように思われた。

私の子どもはまだ目が見え始めたのかどうかもよくわからないが、私の観察では非常に精神分析的な行動を取っているように見えた。一つは、自分が空腹なので母乳が欲しいのに、口では激しくそれを求めながらも、自らの右手などで乳首を払って、遠ざけてしまうことがほぼ毎回のようにあることだ。自分の欲望と体の支配が一致しておらず、矛盾した状態にあるわけだ。これはまさにラカン派の「寸断された身体」という概念そのものである。これは鏡像段階の第一ステージに当たるもので、まあとにかくバラバラだということだ。本で読んでいるだけだったときは全くイメージがわかなかったが、いざ子どもを前にすると一発で腑に落ちた。子どもを抱っこして鏡に写したりしたが、特に何も起こらない。そりゃそうだ。ということはやはり視覚障害者は想像的先取りを行えないのだろうか。そういう伝記もありそうだが。

 もう一つは、子どもがおしゃぶりを吸うということだ。子どもは、空腹に誘われて泣きわめき乳首を求めるのだが、そのうち、自分の空腹以上の欠如に突き動かされて泣いているように見える。フロイトの言うところの「口唇期」である。確かに気づけば指や手をしゃぶったり、私の手にかじりついたりする。これは原始反射と呼ばれる話と妻から聞いた覚えもある。しかし、単にしゃぶることの快楽以上の何かを得ているように見える。指を吸うといっても、都合よく親指を吸うことはまれである。身体が寸断されているから。むしろ目立つのは、妻が母乳を吸わせるのと同じようなポーズで抱っこをすると、ちょうど私の乳首あたりに首が来るのだが、そこで子どもが自分の手で筒を作り、まるで私の乳首を延長するかのように設置してしゃぶるという行動を取ることだ。これはおしゃぶりを加えているときでもほとんど一緒である。重要なのは子どもが作る手の構図が筒であって、親指を立てていないということだ。だから子どもは無を食べ続けているように見える。

 私はこの子どもの行動と、それから時間割的には十分に母乳やミルクを与えているのにもかかわらず(吐いてしまうことも踏まえて)まるで空腹を訴えて激しく泣いている様子に、拒食症患者のことを想像した。「天使の食べものを求めて―拒食症へのラカン的アプローチ」という本もある。

 そもそも赤子にとって乳首は私たちが見ているようなものとしてあるのではなくて、もっと想像的な対象であるはずだ。妻は自虐的に自分がおっぱいになってしまったかのようだというが、私も「火の鳥」のアストロノーツ牧村のエピソードを思い出した。幼児になった彼を擁護するために、女性の船員がおっぱいと植物を合体したような存在にメタモルフォーゼするのだが、あれは植物に乳房を足して合わせたようなデザインだったはずで、大変グロテスクだった。子どもにとって乳房とはそのような対象である可能性が高い。ところが指などを使ってそれを子どもが仮構するとなると、それは違った現象であるような感じがする。いわゆるラカンの3界理論を使って上手く説明できそうな気もするがうまくまとまらない。想像的な乳首と虚構的な乳首が赤子の中にはある。(現実的な乳首と象徴的な乳首もあるのかな?)

 クラインなどはもっとしっかりとしたことが書いてあるのだろうか。興味がある。